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ホラー小説なんて真面目に書くもんじゃなか。

ホラー小説なんて真面目に書くもんじゃなか。(死んだばあさんの声)

明人は10月5日の〆切に向けてホラー小説を書こうとみかん箱の机の前でジーっと正座していた。

目の前に置いた白紙の原稿用紙をヌーっと見つめながらこう思った

どうせ紙と時間と労力の無駄になるんだろうな。
どうせ全部は見てもらえずにゴミ箱にストンと落とされるんだろうな。

明人はそのまま目を閉じた。
安芸明人42歳バツイチで現在奥多摩の奥に小屋を建てひっそり一人暮らしをして今月でまる一年を迎える。
もともとは料理職人を目指し赤坂の料亭で修行をしていた。そこで別れた妻と出会い結婚し、幸せな夫婦生活を営んでいた。

だが三年前妻が彼にこんなことを言った。

あなたには愛想をつかしました。もうついていけません。私、実家に帰らせていただきます。

タヨ!何があったんだ。突然に何を言い出すんだ。俺のどこに愛想をつかしたと言うんだ。

すべてにです。

タヨ、それはあんまりじゃないか。ちゃんと言ってくれよ。直すところがあるなら直すから。な!

言うことはありません。ではおいとまさせていただきます。

明人は夢でも見ているのか、それとも狐につままれたのかあまりの突然の出来事にその場にあっぜーんと立ち尽くした。


明人が十二歳の頃ばあさんと軍艦島のボロアパートで二人暮しをしていた頃ばあさんがよく明人に言っていたことがあった。

明人!お前は軍艦島で生まれ軍艦島で育ったけん。
この島ば守らんといけんけんね。わかったね。

今でもばあさんが時折夢に出て来て何度も同じ話をする。

明人は目の前の原稿用紙に軍艦島とだけ書くとスクーっと立ち上がり、水を飲みに表へ出た。外にある水桶の水をコップに汲み、ゴクゴクゴクっと一気に飲み干した。月が雲で隠れている。八月だというのに肌寒い!冷たい空気の塊が背後に感じられた。もしかしてと明人はビビビっと立つ鳥肌を確認して恐る恐る振り向いた。

真っ白い空気の塊がボーっと宙に止まっていた。明人はあまりの恐怖に目を閉じることも声を出すこともできなかった。何が起きているのか理解できぬまま明人はあろうことか気を失い、その場に倒れ込んだ。ばあさんの声が聞こえた。

明人、驚かしたばってん、ばあちゃんの言うことば最後やけん。
聞いてくれんね。
よかね?
軍艦島にじいちゃんのおるけん、助け出してやってくれんね。

明人は朝小屋の床で目を覚ました。そういえばじいちゃんの話は一度も聞いたことはなかった。生きているのか死んでいるのか以前の「いたのか!」だった。しかし明人はこの信じ難い夢の中の話を実行しようとは思わなかったし、長崎に戻るだけのお金もなかった。

明人はその夜みかん箱を飯台として食事をとっていた。すると、普通にすみませんと若い女の声が聞こえた。奥多摩だけにたまげたという余裕もなく、度肝を抜かれた。
ばあさんの次は若い女か。

夢ではないことに気づき、普通に返事をした。

はい。

若い女が困った顔をして小屋の前に立っていた。
何を聞いてもただうつむいているだけだった。

さあ、どうぞ。どうぞ。こんなところでよければ何泊でもしていってください。何なら住みついてもいいんですよとはさすがに言えなかったが、快く中に入れた。大変だったでしょう。服がびしょびしょじゃないですか。よかったら、これに着替えてください。風邪引きますよ。大丈夫。僕は目をつぶります。

雨でもないのになぜ濡れているのか聞きたかったが聞けなかった。

明人は後ろを向いたとたん女の手が明人の肩に触れた。明人はえ、まさかと思って振り向くと。全裸とは程遠い女の姿があった。おろしていた長い髪をサザエのように巻き上げ、細いうなじがはっきりと見えた。渡した穴の空いた小さくて短めのTシャツは足元に畳んで置かれていた。女はなんと着替えを持っていたんだ。せめてタオル代わりに使って欲しかったと惨めで情けない思いになりかけた時女は立ったまま新体操選手のように膝を曲げることなく上半身を両膝につけ足元のシャツを拾い上げ、体を拭く動作をしてみせた。明人はその動作を見て何でわざとらしく拭くんだ。それジャ俺の思っていることがわかるみたいじゃないか。いい加減にしろとまでは思わなかった。ただの偶然だろうと気にしなかった。

一瞬のできごとだった。


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